目次へ

会長からのメッセージ −その26−

「公約」

 会長になる直前に日本生態学会誌の編集委員長である大串さんから、新会長としての抱負を語る文章を学会誌に書くようにと申し渡された。さらに、会長任期が終わったらそれを検証する文章をまた書くように。実に厳しい申し渡しである。頼んで編集委員長になっていただいたのだから、やむを得ないか。中間には中間評価をする、とは言われなかったのだが、自主的に自己点検することにしよう。

 公約として挙げた一つは現在陽の当たっていない年齢層の方々、長期的に頑張っておられる方々に陽の当たるようにする。そのためには新しい賞を創設するということであった。幸いにして故大島康行先生のご遺志として、基金の贈呈を受け、大島賞を創設することができそうである。原案が出来、常任委員会、全国委員会の承認を得たところであり、来年3月の総会で可決されれば、来年からめでたく発足の運びとなる。

 明るい自由な学会を維持するということも公約の一つであったはずである。自由といわれても、これだけ学会の規模が大きくなると、難しいことも出てきます。締め切りに遅れても申し込み出来る自由とか、会費を払わずに懇親会に潜り込む自由などは、ない。4000人の会員、1500人の大会では、そういうことは無理である。ここでいう自由とはルールを守った上で、どんな発表をしようが、質問をしようが自由である、ということだろうと思う。それは当たり前じゃないか、そんなことは憲法に保障された学問の自由に他ならない。と言われるだろう。しかし実際のところはそういう自由が「保障」されているわけではない。逆に制約はいっぱいある。こんなことを質問すれは笑われるのではないかという自己規制や、白い目で見られたり、「異端者だ」と決めつけられたりですね。そういう事例があると、やはり「自由」だとは言い難い。間違っていると思っても、「決めつけ」ないようにしたいものだ。その当たりは竹中さんのホームページに「質問の仕方」のページがあったから参照されたし。他にも発表の仕方などにも、示唆に富むことがたくさん書いてありました。

 前回も書きましたが、「自由集会」はまさしく自由な集会であり、実質的には何をやっても構わない。その内容について大会実行あるいは企画委員会がとやかく言うことはいっさいない。しかし大会の行事の一環として行われるので、その制約はある。たとえば時間厳守とか、会場の片づけなどですね。時間帯によっては飲食もされることがある。大阪大会では、その片づけがなされていない会場があったらしくて、実行委員会に多大のご迷惑をお掛けしたようである。その他に、プログラムは大会として発行するものであるから、その編集権は大会にある。字数の制限より多い原稿はちょん切るか、それとも縮小するかといったことが議論されていたようだ。内容については大会は関知しない。ある学説が正しいと言おうが間違っていると指摘しようがそれは自由である。ただし、特定の個人に対する誹謗中傷のような文章があれば、それはまずいのじゃないか。できれば書き直していただくということにしましょう。それは仮に対象とされた方がお怒りになったとすると、その矛先は書いた人だけでなく学会にも向けられる可能性があるからです。

 明るいということを客観的に表す指標があるだろうか?私の感じでは若い人や、女性が多いことだとおもうのだが。老人の男性ばかりだと暗い感じになる。しかしそれは偏見であり、逆差別かもしれない。あらゆる階層の人々が参加し、年齢、性別にかかわらず、誰もが自由に発表できるのが望ましい。この問題に関連した男女共同参画については最近のニュースレターに可知さんがまとめられた文章がありますのでどうぞお読み下さい。このメッセージの18にも関連文章あり。

 学会の自由な感じが狭められていると感じられていることの一つに、日本生態学会誌に「原著論文が受け付けられない」ということもあるようだ。ただ誤解のないように言っておけば、「原著論文は今でも受け付けている」ことである。したがって、不満の内容は、「投稿しても載せてもらえない」、ということか、もしくは「そういえば最近原著論文をみないな」といった一抹の寂しさといったものであるようだ。原著の投稿数は多くないようなので、不満は後者に基づく疎外感のようなものかなと考える(この項は次回に続きます)。

▲これは一昨年の年の暮れ。しばらく住んだ京都を来年は離れるだろうということで、白川のあたりをスケッチしたもの。