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会長からのメッセージ −その49−

「自由集会」

 前回に引き続いて、常任委員会での議論を紹介しなければなりません。

 前に議題を紹介した私の文章を読むと、自由集会の「自由」ということについて議論しなければならないということが書いてある。松山大会の自由集会にある方が申し込まれ、その要旨に「他人を誹謗中傷するような」文章があったので、大会企画委員会では「その部分を直していただくようにお願いした」という経緯があった。そのときは、こちらの願いに応じて、直していただいたという事実がある。しかし、直していただけない場合はどうするのか?あるいは、自由集会の会場で法律に触れるような行為が行われたらどうするか?「たとえば、槍を持って踊りだしたりしたらどうするんですか?」というような話がでて、松山大会の企画委員会は盛り上がっていたのだった。

 常任委員会でもそのような議論をしておく必要を感じていた。しかし「場」が違うと、議論はおなじようには進まず、今回は、この問題はこの方だけの特異な問題であり、問題特異的に対処するしかない、というような結論となった。どんな学説を唱えようと、それはあくまで「自由」である。また他の学説を批判するのも自由である。誹謗中傷はいけないかもしれないが、批判との間に明確な線が引けるかどうか。せっかく「自由集会」というものを持っており、しかもこれは前にご紹介したけれども、他の学会には珍しいものであるらしいのだから、あくまで「自由」にやっていただきたい、というのが私の願いである。「自由集会」を守るということは、「学問の自由」を守るということに通じるきわめて重要なことになる。

 そのためにはどうすればよいのか。学会はその権力を行使して自由を侵害することがないように、逆に会員は誹謗中傷ととられるようなことはできるだけ自戒するように、ということになるのかな。結局、お互いにルールを守って、やりましょうという単純なことに帰結する。しかし、そのルールというのはそれほどきっちりと明文化されているわけではない。いままで、侵害したりされたりという危険性や現実がほとんどなかったので、明文化されたものが少ないということだろう。いままでの慣習の積み重ねが、「ルール」になってきたようなところがある。簡単に言えば、規制はしない、誹謗中傷はしない、法律に触れない、といったことしかない。

 実は、もう一つ重要なルールを忘れていた。それは他学説を批判し、新しい自説を展開するのならば、それは論文として世界中の研究者の批判に耐えるようにしなければいけないということである。自由集会といえども学会であるから、いつも楽しく仲間と語り合うだけでは済まないだろう。レフェリー制度のある学術誌に論文として発表されることが必須である。ただし自由集会で話されることは、方向性だけがあって、具体的データのない萌芽的研究とか、シーズ的研究が多いだろうから、直ぐに論文にならないものがあってしかるべきである。この点については私はある程度寛容であるつもりだ。しかし、いつまでもそれに甘えているわけにもいくまい。レフェリーの厳しい批判に曝され、苦しいやりとりをくぐり抜けて、「論」は始めて「論文」になるのだと思う。自由集会で話された「論」は何時の日か「論文」にならなければならない。いつまでも論のままでは、信用されなくてもやむを得ない。「論文」にならない「論」を振り回すのはルール違反といってよいだろう。

 とこうしているうちに、「会員名簿」の使用についてルール違反があると、一会員から訴えがあった。ある方が(上記したある方と同一)、日本生態学会の会員名簿からメーリングリストを作って、自分のメールマガジンを配信しているようだが、これは名簿の利用規約に反しているというものである。しかし現在流布している名簿には、特に、使用規定のようなものが記されているわけではない(現在作成中のものについては個人情報保護の立場から規定が載せられる予定です)。明文化された規定がなくても、名簿をそのように使うのは、個人情報保護の精神からいって好ましいとは言えないだろう。また断っても送りつけてくるのは明らかにルール違反である。全国委員の皆さんにご意見をうかがい、とりあえずは、こういった行為をやめていただくように「お願い」することになり、現在「お願い」しているところです。

▲今年10月下旬に寺島さん主催の日米光合成会議が日光で行われることになっている。日本側、アメリカ側ともに予算が認められ、開催予定といえるまでになってきた。この図は03年にOak会議の後、エクスカーションで連れて貰ったときのスケッチ。