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会長からのメッセージ −その50−

「教養とガラガラ」

 名古屋大学ティーチングチップスというのは、名古屋大学の教員向けに授業改善の手引きみたいな、秘訣(チップス)が盛り込まれたなかなかの出来映えの作品で、僕も一度読んで感心したことがある。先日、名大のその部署の先生がお見えになって、私たちの大学でセミナーをしていただいた。今度は、ティーチングではなくて、学生のためのラーニングチップスであるらしい。

 学生の授業出席率は近年だんだんと高くなっている。私たちの大学はそばに喫茶店もなければ、本屋さんもなく、雀荘も碁会所もないというところであり、大学に来て講義を受ける以外にすることがないというところなので、かくも出席率が高いのだと思っていたら、名古屋大学でも高くなってきていて、全国的な傾向であるらしい。これは喜ばしい傾向であると言うべきか。どうもかならずしもそうではないという。たとえば、本を読むという学生は確実に減っている。1ヶ月に1冊も読まないという人が増えてきている。クラブ活動をやっている学生の比率も減少してきているらしい。他にすることもないので、とりあえず、講義にでも出ようということらしい。多くの学生が熱心にノートをとるということでもない。手がうごいているのは、携帯をいじっているのだという。

 講義に出ていればそれでよいということでもなければ、そもそも大学とは何をするところなのか?それは高校までの過去と離別し、新しく出発する自分をつくっていく通過儀礼的な意味があるらしい。そういえば僕はむかし、「大学4年間は麻雀の洗牌みたいなものや」と言っていた覚えがある。つまり麻雀で1ゲーム終わったら、次を始めるまでにガラガラと牌をかき混ぜるでしょ。あれですよ。徹底的にガラガラとかき混ぜて、前のゲームのことは忘れてしまって、新しいゲームに取り組むわけだ。カードゲームでカードをよく「きる」のにたとえても同じだが、ここはやはりガラガラとかきまぜるほうが感じがでる。ガラガラやることによって、高校までに培ってきた価値観をいっぺん洗い落としてしまう。高校までの価値観は親や教師の言うことをよくきき、試験のときにそれをはき出すというものであったが、大学や大学院では知の継承だけでなく、新しい知の創造へ参加しなければならないといわれる。急にそんなことを言われてもねえ。そこでガラガラが必要だというわけだ。

 そういう通過儀礼つまり僕に言わせればガラガラは、いままで、クラブ活動とか読書のなかで行われてきた。ところが、読書やクラブや喫茶店にたむろしての議論やなどが、少なくなってきているので、ガラガラを大学として組織的に、学生に与えようとされているのが、名古屋大学のラーニングチップスというものであるらしい。なるほど、と、僕には腑に落ちるところが多かった。たしかにガラガラを4年間もやるのは非効率もよいところだ。半年くらいで組織的に通過できればそれに越したことはない。しかしそういったことって、上から与えてうまくいくものなのであろうか?やってみるしかないのだろうが。

 さて、そのような努力をして、大学としては学生に何を提供し、あるいは何を学生に期待するのか。それは言い古されたことではあるが、「教養」であるらしい。人にきっちりと挨拶し、してはいけないことについての倫理的判断力をもち、人類の知の遺産を継承し、またその創造に参加する。といったことを教養人の基準に上げられていたような気がする。教養というのはどうやら、いろいろな知識をたくさん持ち合わせているということだけではなさそうだ。もちろん様々な知識は必要なんだろうけれど。

 ところで、教える先生のほうにそんなに教養があるんでしょうか?という質問が出て、大爆笑になりました、と名大の先生。でも、僕は大爆笑にはいたらなかった。大学の教員は教養とは無縁だと思っているからだ。だって、教員採用の際には業績の審査は行うが、教養の試験はないからだ。僕もこの大学に採用に決まってから、学長と1時間ほど面談したが、幸いにして教養のないことを見抜かれなかった。僕に言わせれば教養とは、社会的生物であるところのヒトが、社会生活を円滑に営むための技術と知識ということである。どこに行けばドングリがたくさん拾えるかという知識や、どうすれば獲物をしとめられるかの技術は専門的知識や技能に属する。拾ってきたドングリを選りながら、春になればそのあたりがまたいかに美しい花で彩られるかを語ったり、しとめた獲物が俊敏で、狡猾かつ凶暴なやつであったかを歌いあげたり、それを洞窟の岩壁に絵として描いたり、獲物をみんなに過不足なく配分するための知識や技能が教養というものではなかろうか。専門的知識がないと生き残っていけないのだが、それだけでは社会生活は円滑にいかない。そこに教養が必要だ、というわけである。研究に没頭する研究者はこのあたりのことは苦手であり、僕にいたっては挨拶もろくにできない。

 もちろん僕だって、学生がお早うございますと言ってくれれば、やあお早うと機嫌良く挨拶できるさ。しかし、「最近の学生は挨拶もろくにしない」、「挨拶することをおしえなければいけない」。これは私どもの大学の学生部委員の先生のご意見。なるほどもっともと思うものの、すこし違うんじゃないかな。お金を払っているのは彼らで、我々はお金を貰っている方だからこちらから、「いらっしゃいませ」と挨拶しなければいけないんじゃかないか。と、思うものの、僕にはもう先生根性が染みついているせいか、これができない。

▲マラヤ大学のWong先生に連れられて、Endaw Rampinというところへ行った。いろんな植物を教えてもらったが、僕は、葉の開き方や托葉の付き方なんかに興味があり、ついそういうところを見てしまう。一昨日に試験を終え、昨日は採点を終えた。明日はこの町のコミュニティカレッジで講義というか講演をする予定。