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会長からのメッセージ −その54−

「仕事術」

 ジョギングで一番しんどいのは向かい風のラストスパートではなくて、最初の100mくらい。今日はちょっと足に張りがあるようだとか、お天気が悪くなりそうだ、などと自分に対する言い訳を考えて、やめてしまおうかなどという気が頭をよぎる。ところがそれを過ぎると、けっこう走り続けられて、最後まで走ってしまう。つまりしんどいのは走り出すところなのだ。静止摩擦が押しとどめようとするのを無理に動き出させる、そこに力が要る。というのでこれは心理的な問題であるとともに物理学的法則性ともいえる。

 仕事術のノウハウ本にも大概このことが書いてあって、とりあえず仕事を始めてしまいなさい、とある。動き出しさえすれば後はなんとかなるということだろう。たしかに仕事で一番大変なのは取りかかるまでである。大文豪が原稿が書けずに原稿用紙をくしゃくしゃと丸めて何枚も捨てているのは、書き出しの1行が書けずに悩んでいるのである。最初の1行さえうまく出れば、後はなんとかなる。ところで今は、最初の1行に悩む時代ではない。なんでもよいから、キイワードのようなものをどんどんワープロに書き込んで置けばよい。

 僕の場合は、20年近く前からその方式をとってきた。繁殖生態学という自分にとっては未知の分野を勉強し始めて、最初は論文を読んでカードを作るだけであったが、そのうちに情報が増えてきて、整理しきれなくなってきた。そこで、自分が教科書を作るとすればどのような項目立てになるかなというのを箇条書きにしてみた。その箇条書きの項目毎に今までに読んだ文献やその概要を書き込んでみる。整理しきれないほどたくさん論文を読んだつもりでいたのに、意外や大したことはない。まだまだ勉強しなければならないことが多い。項目が増えてくるとそれを小グループにまとめ、それをさらに章にまとめるなんて作業をする。全体の構成を考えるわけですね。その作業は悪くない、というか結構楽しい。

 このようにコンピューターの利用は、仕事を始める際の静止摩擦を振り切るのに便利である。同時にいろんな情報を置き換え、並べ替えするのにきわめて簡単であって、これにより知識の構造化をはかる手助けになってくれる。反面、皮肉なことに情報収集にもきわめて便利であるために、若者を中心に多くの人は情報収集を主としてウェブに頼るようになってきた。若者の本離れは著しいようだが、それはそれで仕方がないことだろうと思う。しかしそれでも本というものは無くならないのじゃないだろうか。ウェブ上で得られる情報が断片化された情報であるのに対して、本は構造化された情報であるからだ。

 結局、本を書くということは情報を自分なりに構造化するということになる。その構造がオリジナルか、そうでなくても他人に理解しやすいかといったあたりに本の値打ちがある。逆に読書は、著者の作り上げた構造に対処する作業だということになりそうだ。本の構成を楽しむ心のゆとりが読書という作業をつくりあげるとでもいうべきか。読書は心のゆとりである。ふむ、これはいいフレーズだ。そういえば、将棋の島九段が端歩は心のゆとりですと言っていたな。

 仕事を始めることが重大なら、中断するとまた「始め」なければならないことになる。動き出していたモノを止めると、また動かすのが大変だ。休まないというのは不可能だから、毎日、同じペースで同じ時間帯に同じように仕事を進めるのがよろしい。仕事を始めてから、休みをとると、その間にアイデアがわいてくることが多い。仕事を始めていなければ、休みはただの休みであるが、仕事を始めていれば、休んでいる間に脳のシナプスの繋がりが再整理されたりするんでしょうな、思わぬアイデアに恵まれるというわけである。ただし、休みすぎたら、動きだすのが大変だ。と言うわけで、僕は休日は好きだが、それをみな月曜日に持ってこようというのは、そしてそれによって金を費わせようなどというのは姑息な考え方だと思うのだ。 とはいえ、この前の連休には動物園に行ってきました。

 最近はどこへ行っても中高年が多いが、さすがに動物園は子どもの世界でした。ここの動物園は日本一長寿のカバがいる。50歳を過ぎていて、人間なら100歳以上に当たるという。でも、この計算はどういう論理に基づくのだろう?体重を媒介としたアロメトリーなら、カバの50数歳は人間の40数歳のはずだが。カバの最高齢と人間の最高齢を比例按分して出しているのかな。多分、計算法には問題がありますね。100歳にはとても見えませんでした。

 ところで、昨日からマスコミでは「入門したばかりの若い力士がけいこ中に死亡した事件」を報道しているが、これは「ビールビンや金属バットで撲殺した事件」と正確に報道すべきだろう。こうした事件は閉鎖した同性集団でよく起こることであり、旧軍隊以来の中学、高校、大学の運動部などでも見られる。閉鎖集団ではフラストレーションが溜まり、だれか一人(または複数)をターゲットにそれを解消するということになる。ターゲットにされたほうがこれから逃れるには、新人が入ってきたときに、ターゲットを転嫁し、自分がいじめるほうに回ることである。いままであんなにいじめられたのだから、いじめるほうには回らないと思う人は少なくて、なんとなくいじめるほうに着いてしまう。ということでこの連鎖は終わらない。相撲部屋ではどこにでもあると見なければならない。ということは対症療法では駄目で、根本的な改革が必要である。それについては私見もあるが、また別の機会に。