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会長からのメッセージ −その35−

「功労賞」

 第50回記念大会の際に、日本生態学会に功労のあった多くの方が功労賞を受賞された。過去の会長経験者や、自然保護や編集委員会で活躍された方などだった。まず誰が見ても異論のない方々ばかりである。言い換えれば「お年寄り」ということであった。それで、去年、東正剛さんに差し上げたときは、「なんで俺が」と、やや複雑な表情をされていた。東さんに関しては、Ecological Researchの編集を2期にわたってやっていただき、その間に年3号発行で、しかも原稿が足りなくて困っていた状況を、年6号発行、しかも原稿が多すぎて困る状況にまで変えていただいた。その上、刊行助成を大幅に増額されたということで、学会としては何度も賞を差し上げたいほどの功労をしていただいたわけである。(実は功労賞というのは紙・・おっと、これは書いちゃいけなかったんだ)。

 これからも功労賞は、現に学会のために功労していただいている方を、年齢とは関係なく表彰させていただく予定であり、実際、感謝してもしきれないほどご尽力いただいている方がたくさんおられるのである。54回大会では、過去に幹事長として尽力いただいたお二人の先輩を表彰させていただく予定である。

 お一人は只木良也さんであり、1980年代のはじめに幹事長をなさっていた。この当時は日本生態学会が現代のような近代的な姿に脱皮しようとしていた時期だったと思う。常任委員会が設置されたのはこの時期である。英文と和文の論文はまだ混在していたが、英文誌と和文誌を分離しようという意見が出てきて、その準備をしはじめた時期でもあったと思う。一般会員の記憶にはあまり残っていないが、この時期に、論文原稿を日本生態学会誌に投稿したもののリジェクトされた方が、日本生態学会を相手に、論文掲載を拒否するのは原論の自由の侵害であるとして告訴するという事件があった。このときその矢面にたって苦労されたのが、幹事長の只木良也さんであったとうかがっている。ひょっとするとこれからも有るかもしれないことである。この事件の顛末はどうであったのか、どこかに書き残していただきいと思っている。(只木さんのことだからどこかに書いておられて私が知らないだけかもしれないが)

 只木良也先生について特筆すべきことは、文章がやわらかくて読みやすく、かつ明晰で解りやすいことである。その故もあって、高校や中学の教科書に採用されたり、大学や高校入試にも数多く採用されている。大学入試に採用されるときには、事前に筆者の了解を得るわけにはいかず、試験が始まるやいなや連絡が来るんだなどという話を面白く聞かせていただいた記憶がある。そういや、去年の石川県立大学の入試には私の文章が出ていたな。入試委員の先生は事後承諾をとるべく苦労されていたが、外の人からは私が出題したのだと思われているだろう。

 もう一人の功労賞は辻井達一先生。辻井先生は1990年頃に幹事長をなさっていただいた。90年は日本生態学会が中心になって、横浜で、日本では始めての(アジアでもはじめての)インテコルを開催した時である。そのとき幹事長をなさっていただいたのであるから、大変なご苦労があったと思う。これについても是非記録に残していただかなければならない。

 辻井先生は日本における湿原研究の権威であるとともにシャーロッキアンとしても有名である。シャーロッキアンというのはですね、シャーロックホームズをご存じでしょう。そのシャーロックホームズをあたかも実在の人物であるかのごとくに、その事績を研究しようとする人のことなんだよ。おわかりかな、ワトソン君。辻井さんは主に、シャーロックホームズ物語に出てくる植物について研究をされている。植物が大きな役割を果たしている例としては、ニレの大木の影の先端の位置が宝探しの鍵になっていたり、イチイの木の陰で待ち伏せをしたりなどと、いろいろあるが、大抵は植物は単なる点景として出てくる。それらも丹念に拾い集めて、どんな植物であるかを解明されていくわけである。現在「北方林業」という雑誌に「シャーロックホームズと植物」を連載されています。これを読めば「雑学」というのがどんなものなのかが解る。そういえば、パイプをくわえて鳥打ち帽を被られたお姿は、やや小太り気味のシャーロックホームズである。

▲だいぶ前にボルネオ島キナバル山の中腹の小屋で泊めていただいた朝のスケッチ